LOGIN週末の夜。
都心のホテルへ続く車寄せは、滑り込んでくる高級車のヘッドライトで光の川ができていた。 次々と吐き出されるのは、成功者の制服であるタキシードと、宝石を散りばめたようなイブニングドレスたち。回転扉が回るたびに、甘ったるい香水の匂いと、上気した笑い声が漏れ出してくる。 そんな華やかな世界を切り裂くように、一台の黒塗りのリムジンが滑り込んだ。 エンジンの微かな振動が止まる。 車内は、外の喧騒が嘘みたいに静かだ。「……降りろ」 隣の闇から、低い声が落ちてくる。 ドアマンが恭しく扉を開けた。私は震える足先を、赤い絨毯の上へと踏み出す。「は、はい……」 車外に出た瞬間、夜風が素肌を撫でた。 ぞわり、と背筋が粟立つ。 今夜、私が身につけているのは、いつもの色気のないエプロンじゃない。征也があつらえた、深いミッドナイトブルーのカクテルドレスだ。 背中が大きく開いたデザインは、今の痩せた肩甲骨を容赦なく晒している。 足元には、凶器スカのように細いピンヒール。 かつて令嬢だった頃は、これが私の戦闘服だった。履くだけで背筋が伸びて、誰よりも高く胸を張れた。 でも今は、足枷みたいに重い。重心が定まらなくて、足首が小刻みに震える。 革靴がアスファルトを叩く音がして、征也が隣に並んだ。 仕立ての良い黒のタキシード。オールバックに撫でつけられた髪。 ただ立っているだけなのに、周囲の空気がピリッと張り詰めるのが分かった。鋭い視線が周囲を睥睨すると、近くにいたドアマンが一瞬息を呑んで背筋を伸ばす。 圧倒的な美貌と、隠しきれない威圧感。 光の中に立つ彼を見ていると、自分が薄汚れた影になった気がして、無意識に半歩下がっていた。「あの、社長。私……ここで待機していても……」「馬鹿言うな。俺の視界から出るなって言っただろ」 逃げ腰になった瞬間、腰に熱い塊が巻きついた。 征也の腕だ。ホテルからの帰り道も、沈黙だけが続いていた。 首元の重みだけが、先ほどの出来事が夢ではないことを絶えず告げている。 冷たかったはずのサファイアは、いつの間にか私の体温を吸って生暖かくなっていた。 まるで、私の身体の一部になり代わろうとする寄生虫のように、肌に馴染んでいる。 屋敷に戻ると、深夜にもかかわらず、エントランスの明かりが煌々と灯っていた。 車寄せにリムジンが滑り込むと同時に、数名の使用人たちが駆け寄ってくる。 征也に促されて車を降りた私は、無意識に首元のネックレスを隠そうと、手が動いた。 あまりにも目立ちすぎる。 これを見れば、誰もが私と彼との関係を――単なる雇い主と家政婦ではない、もっと歪で背徳的な繋がりを察してしまうだろう。「……隠すなと言ったはずだ」 私の手首を掴み、征也が冷たく言い放つ。「それは見せるためにつけているんだ。この屋敷の人間全員に、お前が誰のものか知らしめるためにな」「そんな……恥ずかしくて、顔を上げられません……」「恥? 今さら何を言う」 征也は私の手首を離すと、顎をしゃくって屋敷の入り口を示した。「行け。お前の部屋はもう用意させてある」「え……?」 私の部屋? 通いの家政婦である私に、部屋など必要ないはずだ。 まさか、住み込みということなのだろうか。 呆然とする私の背中を、征也の手が強引に押した。「言ったはずだ。二十四時間、俺の管理下に置くと。……今日からお前はこの屋敷で暮らすんだ」「聞いてません……! お母さんを一人にするなんて、そんなことできません!」「母親の世話なら、腕利きの看護師を三人手配した。お前が下手な介護をするより、よほど快適に過ごせるだろうよ」 用意周到すぎる。 私の逃げ道を、一つずつ丁寧に、そして確実な力で潰してきているのだ。 反論しよう
「嫌なら外してみろ。違約金をすべて払って、この部屋から出て行けばいい」 試すような響き。 そんなことができるはずがないと知っていて、私を追い詰めているのだ。 母の命も、これからの暮らしも、すべては彼の手のひらの上にある。 この首輪を外すことは、生きることを投げ出すのと同じ意味を持っていた。「……できません」「聞こえないな」「……外せません。私は……あなたの、持ち物ですから」 屈辱に視界が滲む。 けれど、それを聞いた征也の表情は、歪むほどの喜びに染まった。 彼は満足げに目を細めると、私の首筋に顔を埋めた。「んっ……!」 熱い吐息が、敏感な肌に吹きかけられる。 背筋を稲妻のような痺れが駆け抜けていった。 怖い。悔しい。 なのに、どうしてこんなにも、身体の奥が熱くなるのだろう。 彼に縛られているという事実が、彼に支配されているという証が、空っぽだった私の中身を埋めていくような、恐ろしい充足感。「いい子だ」 征也の唇が、首筋に触れた。 キスではない。獲物を味わうように、舌先で肌を這う。 昨夜つけられた赤い痕――しつこく残る印の上を、なぞるように。「ひゃ……っ、や、やめて……ください……っ」「暴れるな。鎖が擦れて傷になるぞ」 嘘だ。 彼は私が傷つくことなんて、微塵も気にしていない。 ただ、私が自分の腕の中で翻弄され、情けない声を漏らす姿を見たいだけなのだ。 征也の手が、ドレスの背中のファスナーにかけられた。 ジジジ、と布が擦れる音が、静まり返った部屋に大きく響く。「あ……っ!」「大人しくしていろ。……今日は一日、随分と気を張り詰めていたようだからな」 ファスナーが下ろさ
周りを取り囲むダイヤモンドの煌めきさえ霞んでしまうほどの、圧倒的な輝き。 かつて月島家が栄華を極めていた頃でさえ、これほどまでの品を見たことはない。 家一軒どころか、城一つが買えてしまうのではないか――そう思わせるほどの価値が、その青い石には宿っていた。「綺麗だ……」 背後から私を包み込むようにして、征也が鏡の中の私を凝視している。 けれど、きっと、その言葉は私に向けられたものではない。 私の首を飾り、自由を奪う、彼の持ち物へと向けられたものなのだろう。 征也の大きな手が、私の鎖骨の上を滑り、冷たいサファイアを掌で包み込んだ。「よく似合っているぞ、莉子。その透けるような肌に、この青はよく映える」「……こんな恐ろしいもの、受け取れません。私には、とても……」「勘違いするな。誰が『やる』などと言った」 征也の目が、鏡越しに私を射抜いた。 低く、けれど背筋が震えるほど官能的な響きを含んだ声。「これは貸しているだけだ。家政婦の制服と同じようにな」「制服……?」「そうだ。お前が俺の持ち物であることを、誰の目にも明らかにする印だと思え」 印。 商品につけられる、値札。 征也の指が、サファイアの表面をゆっくりとなぞる。 硬質な石の滑らかさと、皮膚に触れる彼の指の熱さ。 その激しい対比に、頭の芯が痺れていく。「これは、俺たちが交わした約束の証だ。風呂に入る時も、寝る時も、絶対に外すことは許さない」 鏡の中の征也が、私の耳元に唇を寄せた。 まるで愛を囁く恋人のような近さ。けれど、告げられた言葉は、私を永遠に繋ぎ止める呪いのようだった。「……鏡をよく見ておけ、莉子。お前が誰のものかを、な」 サファイアの重みが、ずしりと鎖骨に食い込む。 それは単なる石の重さではない。 彼の歪んだ執着、独占欲、そして逃れることのできない現実の
「……何を、そんなに怯えている」 グラスの縁越しに私を見下ろす瞳が、わずかに細められる。 それはまるで、獲物を追い詰めた猛獣が、その震えをゆっくりと吟味しているかのような眼差しだった。「パーティーでの借りは、たっぷりと返してもらう。そう言ったはずだが」「は、はい……。私は、何を……すればいいのでしょうか」 靴を舐めろと言われれば、膝をつくしかないのだろうか。 それとも、この場でドレスを脱げと命じられるのだろうか。 契約書に記された『二十四時間、あらゆる命令に従う』という冷酷な一文が、消えない火傷の跡のように脳裏に浮かんでは消える。 征也はグラスを置くと、スラックスのポケットから細長い小箱を取り出した。 深夜の闇よりも深い、沈んだ色をしたベルベットのケース。「立て」 命じられるまま、糸に引かれる操り人形のように立ち上がる。 征也が一歩、間を詰める。 私を守るように羽織っていたジャケットの襟に、彼の手がかけられた。 抵抗する間もなく、ゆっくりと、剥ぎ取られる。 冷房の効いた室内の空気が、露わになった肩と背中に触れ、ぶるりと鳥肌が立った。 薄いドレス一枚になった、無防備な姿。それを隠す術はもう何もない。 征也の視線が、私の喉元から胸元、そして白く浮き出た鎖骨へと、ねっとりと這うように移動していく。 見つめられている場所から、じりじりと熱を持って溶かされていくような、言いようのない感覚。「……後ろを向け」 その声に逆らう術を、私は持っていない。 震える足で背を向けると、背後でカチリとケースを開ける乾いた音がした。 直後、首筋にひやりとした重みのある感触が触れた。「あ……っ」 あまりの冷たさに身を縮めると、それを咎めるように、征也の熱い指先がうなじを優しく、けれど強く撫でた。「動くなと言っただろう」 耳元で囁かれる吐息が、皮膚
リムジンの低いエンジン音が不意に途絶えた瞬間、まるで耳の奥に幕が下りたような、しんとした静寂が車内を包み込んだ。 窓の外を流れ去っていた都会の光の帯は止まり、後部座席には、どこか粘りつくような重苦しい闇だけが淀んでいる。 「……着いたぞ」 隣に座る男の、低く、地を這うような声。それだけで、私の肩はびくりと小さく跳ね上がった。 膝の上で指が白くなるほど握りしめていた彼の上着――先ほどのパーティー会場で、さらし者にされた私の惨めな背中を、無言で覆ってくれたジャケット。そこからは、征也の匂いがふわりと立ち上っていた。 乾いた煙草の香りと、鼻の奥をくすぐる清涼感のあるミント。その奥に微かに混じる、体温に溶けたムスクの残り香。その香りにどこか安らぎを感じ、肺いっぱいに吸い込んでいた自分に気づき、私は慌てて浅い息を止めた。 「あの、ここは……」 見覚えのあるお屋敷ではない。車窓から見えるのは、先ほどまでいたホテルの裏口にある、VIP専用の重厚なエントランスだった。 「降りろ」 私の問いかけには目もくれず、征也は短く命じると、先に車を降りた。 ドアマンが恭しく開けた扉の向こう、夜風にタキシードの裾を揺らして立つ彼の背中が、逃げ場を塞ぐような圧力を放って私を待っている。 逆らうことなんて、最初から許されていない。私は震える足に力を込め、高いヒールをアスファルトの上に下ろした。 案内されたのは、ホテル最上階に位置する特別な部屋だった。 直通エレベーターが上昇していく数十秒の間、私たちは一度も視線を交わすことはなかった。 鏡のように磨き抜かれた扉に映るのは、あまりにも不釣り合いな二人の姿。完璧な仕立てのタキシードを纏った若き支配者と、彼から借りた大きなジャケットに埋もれ、幽霊のように俯く没落した令嬢。 階数を示すパネルの光が、無機質に切り替わっていく。 逃げ場のない密室に充満する彼の気配に、喉が張り付くように渇き、うまく呼吸が整わなかった。 「入れ」 カードキーをかざし、重厚な扉が音もなく開かれる。 一歩踏み出した瞬間、足首まで埋まりそうなほど毛足の長い絨毯が、
エリカの呆然とした顔、周囲の驚愕の視線を置き去りにして、征也は私の腰を抱き、出口へと歩き出す。 背後でざわめきが波のように引いていく。冷房の効いたホールの人工的な涼しさから、夜の湿り気を帯びた外気へと世界が切り替わっても、肩を抱く腕の力は緩まない。 その強引なエスコートは、まるで「この女は俺の戦利品だ」と全世界に宣言しているかのようだった。 ジャケットの中で、私は彼にしがみつくように歩調を合わせる。 屈辱的なはずなのに。所有物扱いされているだけなのに。 彼の体温に触れている脇腹だけが、どうしようもなく熱かった。 ◇ 会場を出て、再びリムジンに乗り込むまで、征也は一言も発しなかった。 重厚なドアが閉ざされると、車内は深い闇と静寂に支配された。滑るように走り出した車窓を、都会のネオンが流星のように過ぎ去っていく。時折差し込む光が、征也の彫刻のような横顔を陰影深く浮かび上がらせては、また闇へと沈めていく。 車内という密室に戻り、車が走り出してようやく、重苦しい沈黙が破られる。「……謝罪はしないぞ」 窓の外を流れる夜景を見つめたまま、彼が言った。「お前があそこで大人しく靴を拭いていれば、あの女の気も済んだかもしれないと、そう思っているのか?」「……いいえ。そんなことは」 膝の上で、借りたままの彼のジャケットを握りしめる。上質な生地から立ち上る彼の匂いが、肺の奥まで満たしていく。「助けていただいて、ありがとうございました」「助けたわけじゃない」 即座に否定の言葉が返ってくる。 征也はゆっくりと視線をこちらに向けた。車内の暗がりでもわかるほど、その瞳は昏く、濡れたように光っている。「俺の所有物に傷がつくのが不快だっただけだ。……それに」 彼は手を伸ばし、私の頬にかかった後れ毛を指先で払った。 本革のシートが軋む微かな音が、やけに生々しく鼓膜を揺らす。その仕草は驚くほど繊細で、先ほどの冷徹な態度とは裏腹に、触れる指先は微かに震えている